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日本の世界遺産H 古都奈良の文化財古都奈良の文化財(1998年 文化遺産登録) 奈良に都がおかれたのは710年のことです。 それから1300年近くの時が流れた1998年の12月、京都で開かれた第22回世界遺産委員会で、世界文化遺産リストへの登録が決定しました。「古都奈良の文化財」は次のような8つの資産で構成されています。 ●国宝建造物があり、敷地が史跡に指定されているもの 1.東大寺 奈良といえば大仏というほど、大仏は奈良の象徴です。その大仏をまつっているのが、東大寺の金堂=大仏殿です。深く仏教を信じた聖武天皇は、仏のめぐみによって政治の不安を解決しようと考えました。国ごとに国分寺を建てることを命じた天皇は、大仏づくりを助けるよう全国民に呼びかけました。7年の年月を費やして749年(天平勝宝元)に大仏が完成、つづいて世界一の木造建築である大仏殿もできて、752年(天平勝宝4)に開眼供養の法会が行われました。 隣接する正倉院には、756年頃に建造された、高床式の校倉造で建造された宝物庫があります。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設です。正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書(もんじょ)、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫です。 2.興福寺 猿沢池にうつる興福寺の五重塔は、奈良を代表する風景になっています。その興福寺は、藤原鎌足の死後の幸福のために建てられた山階寺が、飛鳥に移されて厩坂寺となり、平城遷都で移建されたと伝えられていますが、実は鎌足の子不比等の発願で氏寺として創建されたものです。藤原氏の力が大きくなるにつれて興福寺も勢いを伸ばしました。興福寺は氏社である春日社一体だと主張して春日社の実権をにぎり、1135年(保延元)には若宮社をおこして翌年から若宮祭(おん祭)を始めます。興福寺は東大寺と多武峯を除く大和の寺社をその末寺や末社にするとともに、大和の土着の武士たちに僧の身分を与えて僧兵の主力にし、大和を治めるようになりました。何度か焼失した後、再建されています。 3.春日大社 この地は、もと春日地方の地主神をまつっていたところです。藤原氏によって768年(神護景雲2)、四座の神々がまつられ、春日社が成立しました。藤原氏の氏社としてできたのですが、間もなく祭は国が行うことになりました。平安時代になって、社殿がいまのように形を整えました。 鎌倉時代以降の春日社は、伊勢神宮・石清水八幡宮と並んで「三社」といわれ、国民の信仰を集めるようになりました。合わせて3,000に及ぶ参道の石灯籠や回廊の釣灯籠に、それをうかがうことができます。鎌倉時代から20年ごとの式年造替(きまった年にもとの姿に造りかえる)が行われてきました。現在の建物は、1863年(文久3)の造替によるものですが、平安時代の姿をよく伝えています。明治以降は、屋根の葺きかえを中心とする修理で造替に代えてきたのです。 御蓋山(みかさやま)を背に、深い木立に囲まれて、丹塗り(にぬり)の社殿が鮮やかです。 4.元興寺 元興寺は、蘇我馬子が飛鳥の地に建てたわが国最古の寺院、法興寺(飛鳥寺)を平城京に移したものです。奈良時代の後半にはほぼ伽藍を整えたとみられます。平安時代の中ごろから元興寺は衰え、浄土教が広まるにつれてその中心は、僧坊の一郭である極楽坊に移り、庶民の信仰の場になっていきました。 1859年(安政6)、五重塔と観音堂が焼け、古くからの建物は極楽坊の本堂と禅室だけになりました。屋根の一部に飛鳥法興寺から移されたとみられる瓦が用いられていて、今はごくわずかな行基葺の例をみることができます。なお禅室は中央の間を戸口とする僧坊の形式を伝えています。 5.薬師寺 薬師寺は、もと天武天皇の発願により持統天皇によって藤原京に建てられたものです。718年(養老2)平城京に移され、もとの薬師寺にならって新しく造営がすすめられました。できあがった当時の伽藍は、美しく堂々としたもので、その調和のとれた美しさが「竜宮城を写した」とたたえられたという伝えがあります。東塔以外は火災に遭い再建されていますが、創建時のままの東塔は、古色蒼然、しっとりと落ち着いたたたずまいです。三重塔なのですが、各層に裳階(もこし)がつけられていて六重のようにみえ、リズミカルな美しさを持っています。相輪の上部の水煙は、空を舞う天女と童子を透彫りにした四枚の銅板からできている傑作です。 6.唐招提寺 唐招提寺は、唐の高僧鑑真によって759年(天平宝字3)に建てられました。鑑真は揚州大明寺の僧でしたが、741年55歳のとき、戒律を伝えるため日本に渡ることを決意します。五回も渡航に失敗、両眼とも失明しましたが、鑑真はくじけませんでした。六度目にやっと日本の土をふみ、754年(天平勝宝6)に奈良に着きました。東大寺に戒壇を設け、聖武天皇以下400余人に戒律を授け、西ノ京に新田部親王の旧宅を賜って建てたのがこの寺です。創建当時の遺構に、金堂・講堂のほか校倉造の宝蔵と経蔵があります。金堂は奈良時代の金堂で残っているただ一つの例です。会津八一は、正面一間が吹きはなしになっている列柱の美しさをこううたっています。講堂は、鎌倉時代に外観に手を加えられていますが、平城宮の殿舎のうちただ一つ残っているものです。 ●特別史跡・特別天然記念物に指定されているもの 7.平城宮跡 平城宮は、710年(和銅3)平城京の北部中央に、東西約1.3キロ、南北約1キロの地を占めて営まれました。ここには、天皇の住まいである内裏や国家的な儀式や政治の場である大極殿・朝堂院のほか、たくさんの役所が立ちならんでいました。平城宮の四方には、高さ5メートルの築地塀がめぐらされ、それぞれに三つずつ併せて12の門があり、南の正面中央の門が朱雀門でした。都が平安京に移ったあとは、田んぼになって長い間忘れられてきましたが、江戸時代の末になって平城宮の規模が明らかになりました。 これまでに宮跡の3分の1の調査が終わりましたが、宮殿や役所の跡がつぎつぎに明らかになり、約5万点にのぼる木簡をはじめ、土器や瓦、生活用具などたくさんの遺物が発見されました。平城宮跡が世界に比類のない地下遺構、歴史の宝庫であることが明らかになってきました。1998年(平成10)春、朱雀門と東院庭園が復原されました。 8.春日山原始林 春日山の最高峰は花山(498メートル)、その西の峯、春日大社のすぐ東に笠を伏せたような形をしているのが御蓋山です。この二つの峯のあたりに、千年以上も人手の加えられていない「春日山原始林」がひろがっています(約300ヘクタール)。 841年(承和8)、山内での狩猟や伐木が禁止され、春日山一体が春日社の神域になりました。その後春日山は、日本人の自然観や春日信仰と結びついて聖域として守られ、春日社と一体のものとして文化的景観を形づくってきました。原始林には、コジイ・イチイガシ・アカガシ・モミ・スギ・ヤマザクラなど175種類の樹木や598種類の草花が生育しています。10種類の動物やアカゲラ、サンコウチョウなど60種類の鳥類が住み1,180種の昆虫が見つかっています。 (参考文献:奈良市観光情報センターホームページ) 東京からの行き方(一例) 東京駅→(新幹線)→京都駅→(近鉄)→近鉄奈良駅 または周辺各駅より、徒歩またはバス利用 所要時間:約3時間30分 |
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